第27期会長 今田 匡彦(弘前大学)

音楽教育学とは何か,と定義づける営みは,むしろ思考の動きや揺らぎを消失させてしまいます。音楽教育学は,特定の方法論に収斂する学問でもなければ,あらかじめ対象や領域が確定しているわけでもないからです。むしろその輪郭は,つねにどこか曖昧なままに保たれています。そこでひとまず,「音楽」「教育」「学」という三つの語に分けて,その交差性を探ることはできるかもしれません。しかしそれは,それぞれを確定するためではなく,それらがどのように揺らぎながら関わり合っているのかを見ていくための暫定的な手続きにすぎません。まず「音楽」は,もはや単一の体系として把握しうる対象ではありません。
かつて自明とされていた枠組みはすでに相対化され,多様な実践や環境,身体や技術との関係のなかで,その都度,異なるかたちで立ち上がっています。私たちはしばしば,「クラシック音楽」「民族・伝統音楽」「ポピュラー音楽」といった接頭語によって音楽を区分しますが,そうした区分が何を捉えているのかを問う以前に,そもそも音楽というものがどこまで名指しうるのかを考える必要があります。音楽の総体は,あらかじめ与えられた対象として把握しきれるものではなく,つねに私たちの理解を摺りぬけていくからです。
同時に,これまでの音楽教育を振り返ると,音楽を対象として捉え,整理し,効率よく伝えることに重きが置かれてきた側面も見えてきます。楽譜や理論,段階的な技能評価といった枠組みは,本来有効な道具であるはずですが,それらが前面に出すぎることで,音楽はしばしば「正しく再現するもの」として扱われるようになってきました。その結果,「うまくできるかどうか」や「間違えないこと」が重視され,音に出会う驚きや,即興的に関わる感覚,周囲の音環境との関係といったものは,後景に退いてしまいがちです。音楽があたかも書き言葉のように扱われ,記号として固定されてしまう場面も少なくありません。
「教育」もまた,単なる知識や技能の伝達にとどまるものではなく,何かに出会うことによって〈私〉が変わりうる過程として開かれています。そして「学」は,確定された知を積み上げる営みである以前に,問いを持続させ,その不確かさに耐え続ける運動でもあります。
このように見ていくと,「音楽」「教育」「学」はそれぞれ独立したものとしてではなく,互いに定義しきれないまま交差する場として現れます。何が音楽であるのかが確定しないままに音が立ち上がり,それに関わることで〈私〉が変容し,なおその意味が問い返され続ける——その重なり合いの只中に,音楽教育学は位置しています。 とりわけ子どもという存在は,そのような名指しに回収される以前の位相で,音と関わり続けています。だとすれば,私たちが向き合うべきなのは,既に名づけられた体系としての音楽ではなく,いまだ名指されていないオンガクの広がりそのものなのかもしれません。そして,その未知のオンガクに子どもたちとともに触れ,実践を通してわずかに接近していくこと——その可能性を担いうるのは,「音楽」を括弧の中に閉じ込めず,接頭語で限定しない音楽教育学だけなのかもしれません。本学会が,確立された知の集積に安住することなく,思考の生成そのものに開かれた場であり続けることを願っています。研究と実践のあいだに新たな往還を生み出しながら,音楽教育という営みの可能性を,みなさんと問い続けていきたいと思います。